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Channel: 途夢風情感
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巻末付録+α(期間限定):SMILE(ゑみ) ~Wherever you are, look up!~

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GW明けからある取材に追われていたのだが、物質文明と過剰な情報の中で日々を過ごし、誰もがいつでもどこでも公に発信可能な現代社会においては、若い世代が「持たざる者」の意識を持ち難い時流となってしまったのだな、と痛感している。 携帯電話出初めの頃、尊敬する先輩同業者(故人)のその使い方はとてもスマートで大人然としていた。猥りに人前にそれを曝すことを善しとせず(当初は存在自体が掌に収まり切れるものではなかったが)、今日のように巷で他者への意識(配慮)無しに歩行しながら使用することはまず有り得なかった。プライヴェート・グッズ使用の際の、社会人(大人)としての嗜みと理性が真っ当にあった。 私もまた携帯電話を利用する折には、そのジェントルマンシップを自ずと継承していた。今日まで、食事処の卓上でもBARのカウンター上でも携帯電話を手にする無作法(野暮・失敬)は慎んできた。歩行中に(マナーモードの)着信を感知すれば、人様の邪魔にならぬよう、すぐに脇に移動して(いったん歩行を中断し)速やかに対処。再び人の流れに沿って歩き始める前に携帯電話は定位置(上着やヴェストのポケット)にしまい込んでいる。 それが、社会人(大人)たる、私流の携帯電話の使用心得。そして、その距離感。 携帯電話を初めて手にした時から一貫している。 私にとって、携帯電話とはやたらと人前に曝すものではなく、「あの人がケータイを手にしている姿を見たことがない」程に思われるのが理想。 その携帯電話との適切な距離感が、終日身近な存在との「お付き合い」一辺倒ではない、本来の大人としての(真に開かれた)社会性を維持している。 先日(GW中)、渋谷で、初めての蕎麦屋に入った。向こうの卓席に若いカップルが向かい合わせに腰掛けていたのだけど、注文した品が運ばれてくるまで、彼等は顔を見合わせることも会話も全くなく、各々の携帯電話の画面ばかりを見つめ、その操作をしていた。食事が運ばれてきた際も同様で、店の年輩の従業員に目をくれることも、言葉を発することもない。彼等は、いつもそうしているのだろうが、(「いただきます」の代わりに)まずは目の前の膳の写真を撮り、互いの「作品」を見せ合い、満足そうな笑みを交わした(私が見ていた限りでは、そこで初めて会話が為されていた)。食事中も携帯電話は傍ら(食卓)に置き、その画面に目を向け、片手はその操作が殆ど。各々、御飯物と蕎麦のセットだったのだが、箸を持つ利き手のみのその食事風景は端から見ていて見苦しい(貧しい)姿だったのは想像出来よう(麺つゆが液晶画面にはねた時には慌てて両手もて対処)。食事中もそのカップルは人間らしい会話は抜きだったように思う。 せいろをツルッと引っかけるだけだった私は、蕎麦湯を味わった後、彼等よりも先に退店したので、彼等が食後(会計時)どういう所作をしたかは判らない。が、年輩世代も数多利用していたその老舗和食店でも中折れのハットを脱帽出来ないままの男のそれは想像に難くない(彼は、ハットにも「表情」があることさえも解せないままに、ただ、終日被り続けているだけなのだろう)。 私が女性と食事する場合において、その間にも相手が携帯電話を手放せないような感性の持ち主であれば、もう同席することはあるまい(若い仕事仲間に関しては早い段階からしっかりと助言している)。恋人として付き合う女性との食事(デート)の際には携帯電話の存在を視界に曝して欲しくはない(それは「親しき仲」なら更なる礼節ではないだろうか)。携帯電話の存在をすっかり忘れ、軽く凌駕してしまえる程の時間(関係性)を共有する(その為には私という存在自体に魅力が充分に供わってなければならないが)。 それが、「今、(共に)在る」ことだと私は実感して、日々、生きているから(あの「3・11」以降は尚更)。 今年のある夕刻、自由が丘の某食事処に初めて入った。女のコも一人で利用出来るような、今流の定食店。 壁際に沿った幾つもの卓席は一人客や複数客で殆ど埋まっていて、人気の程が窺えた。私は、店内中央の(向かい合わせ式の)カウンターにすぐに腰掛けられたが、その後には順番待ちの列が出来ていた(成程、食事自体も美味しかった)。 程無くに、私の向かい側に母子が腰掛けた。女の子は小学校高学年であろう。持参の漫画本を拡げ、傍らの母親は食事前のビール片手に携帯電話画面を眺め始めた。やはり、会話は淡い。たまに、母親が液晶画面を介在に話し掛ける程度。 あと数年後には娘も携帯電話を手にするだろうが、どういった使い手になるかのイメージは浮かぶ。 二人は注文の品が運ばれてきた際にも、各々の眼差しは変えず、無言の対応だった。 周り(卓席)の「一人飯」の女のコ(女性)達もまた、食前・食中・食後、携帯電話を絶えず手放せないといった感のたたずまいであった。 日本の食卓(食育)は女性の手に委ねられている部分が大きいと思うのだが、この国の今日の貧しい食事風景の現実を見る思いがした。 私は、私の(生を存えさせる)為に一飯を賄って下さる(献身して下さる)方々の姿や声や音を「今在る生の営み(質量)」として実感していたいと思う。有り難いという想いも自ずと生じ、運ばれてきた際の、微笑みを携えての所作(言葉や会釈)も社会の新参者時分と変わらず。美味しく味わうこと一心だから食事後も同様。 たかが簡便グッズひとつでそれらを蔑ろにするのは、社会性を携える人間(大人)としての、退化に等しいと思っている。 ネット上で、「(笑)」を多用する人達が現実の世界では他者(赤の他人)に対して柔らかな微笑みを携えられなくなってしまった味気無い日常に違和感(危機感)を覚えているこの国の大人は、はたして、どれ程いるのだろう。 社会の新参者たる次代も、既にそれが「自然」なのか。どんなにお洒落上手な女のコでも、どんよりとした表情(眼差し)で掌世界ばかりを注視しているので、路上でも車中でも店内でも、その真の美しさは醸し出されることはない。 若い世代が、微笑みと眼差しを携えて、席や道を赤の他人に譲る姿を気の遠くなる程に目の当たりにしていない。 人間は「平等」だが、大人と(社会の新参者たる)若者は決して「対等」ではないという意識は、今日の青年の中には殆ど存在していないのだろう(「哀傷の情」の経験値一点のみにおいても、若輩は年輩に対して、例え赤の他人だろうが、常に敬意を表するべきだと思う。哲学不毛の時代であっても、齢を重ねることについて会得することは若輩の成長には必要なこと)。 日々の社会生活の中で、五感を活かして、学びを得るという向上心もあるまい。 アナログ世代の青年期には間違いなくあった、「持たざる者」の自覚が無いのである。 モノと情報を絶えず得ていることによる「持つ者」への錯覚(過信)。 それが、人間力を育成する気概を喪失させ、「『(笑)』遣いの『微笑み』知らず」というアンバランスを増長させている。 年輩宛ての手紙、学校の読書感想文や作文の中に、違和感なく「(笑)」を用いる次代がいる現実を見聞する度に驚かされる。 「(笑)」なる省略表記は、元々は、対談やインタビューを記事にする場合に(字数制限の中で)泣く泣く用いざるを得なかった活字媒体の苦肉の策。それがどういう質感(空気やニュアンス)の「笑い」であるのか、伝えられないことに歯痒さを覚えつつの、読者の行間を読む力頼りの、「対処」なのである。 それがネット社会で(一般人の手により)すっかり市民権を得てしまった。 私自身は、物書きのプライド(精神性)として、これまでのネット上の活字表現で「(笑)」の類いを一切用いていない。 人間が「笑う」ことは元来豊かなものであり、且つ潤いを伴う行為のはずなのに、誰もが自由な活字表現を手中にしている中で、わざわざ省略系(ボキャ貧)にすることは、日本語の唯一の遣い手(担い手)たるこの国の人々がこぞって為すべきことではあるまい。 声を大にして言いたい。「笑い」には様々な趣き(質感)があり、それに伴う言い回しがこの国の言語には数多あるではないか。 何故、長年の日本語の遣い手であるこの国の大人が億劫がることがあろう(どうか、アナログ期の手紙に認めたあの豊かな言い回しを思い返して欲しい)。 現実社会の(とりわけ、次代の)「微笑み」不足は、この実に使い勝手な「(笑)」の安易な濫用と決して無関係ではあるまい。 「言葉は『生き物』だから、乱れや変化は致し方ない(笑)」なんて、言語学者までもが言い放つ時代だが、生き物なればこそ、それを生き生きと活用することこそが、(どの時代においても)「先生」たる大人の務めではないだろうか。 繰り返す。 「笑い」自体に様々(微妙)な表情があり、尚且つその言い回しはこの国の言語に数多存在していて、それらは社会に「豊かさ(潤いや活性)」を(本来は)生むものなのだ。 アナログの時代をたっぷりと生き抜いてきた我々大人達こそが、現実社会においても、ネット上でも、率先して手本(導き)となろうではないか。 時流に媚びず、「ネットの当たり前」に与しない、我々のその姿勢こそがこの国の未来を占うもののような気がしている。 媚び売る「可愛いオトナ」が増殖する中、凛とした大人のたたずまいが顧みられず、忘れ去られ、若輩が敬意を表せない御時世となってしまった。 はたして、それは誰にとって豊かなことか。 私亡き後のこの国の未来を憂う。 ネット上でも、次代が大人のたたずまいから、情操を育んだり、学びを得ることは可能だと私はいまだ信じている。 その為に、齢重ねた我々大人の一人一人がどういった携帯電話の用い方(距離感)を「嗜み」とするか、どういった「ネット言語」の用い方を未来の日本語の行く末とイメージするのか、改めて熟慮してみる必要はあろう。 そして、ネット上においても、年輩と未熟者が「対等」であることは決して有り得ない。 「持たざる者」の錯覚(過信)を厳しく戒め、教え諭すことは、ネット上でも、大人の務め。 それを放棄して、「お気楽な(表現の)自由」に大人までもが胡座をかき(甘んじ)、依存してしまっては、この国にかつて在った「佳きもの」は何れ跡形も無くなるであろう。 間もなく(9月中)に、ネット表現から一線を画する身ではあるが、(自由が丘の街にも縁ある)ある年輩紳士(著名人)のブログ内(コメント欄)のカオス(匿名もて自身のみならずこの国の品性を賎しめる若輩の無秩序)に、(父親世代の背中や労苦を見てきたはずの)今日の大人として「敗北感」(抜き差しならない無力感)を覚えたこともあり、今在る想いを明確にしておいた。 この時代、敢えてネット社会と一定の距離を置こうとする、実社会で為すべきこと数多のアナログ世代からの(傷みを伴う)遺言として受け留めていただきたい。 ※「今後、更新はしない」と明言しておきながら、綴らずにはいられなかった今回の文章。 前世紀の、人間力の象徴でもある存在、笑いの伝道者チャールズ・チャップリン(1899~1977)やその作品のことを顧みながら、著した。 頑なに台詞を拒み続けてきた喜劇王が初めて「声」を(無国籍語風造語詞による歌でのみ)聞かせた『モダン・タイムス』(1936)は、文明への風刺や人間の自由といったテーマを普遍的且つ超時代的に伝え遺す名作である。 今回の記事タイトル(後半部分)は、チャップリンの初めての本格的なトーキー作『独裁者』(1940)におけるあの有名な長台詞(心震えるスピーチ)の中から選んだ。チャップリンが二役を演じた、独裁者(4日後に生まれたヒットラー)とユダヤ人の床屋。上から目線になれば前者、見上げる位置のままなら後者。 まだ「持たざる者(little people)」たる青年が、どの時代であっても、現実でもネット上でも、見上げる眼差しこそ携えている「希望」であることを願いつつ。 粛かな誕生日に。

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