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Channel: 途夢風情感
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巻末付録3:命(自由なる「自ら然り」)及び「今」(尊い生の瞬間)の質量、あるいは、存える為の感謝の念 ~TO J-LADY WITH LOVE~

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2012年9月。 心ある仕事を共に果たした仲間(出版社主幹)が鮨屋に誘ってくれた。 久々の一流処の仕事に舌鼓を打っている内に、カウンター並びにいた他の年配客の嘆息をきっかけに、昨今、黙許される風潮と化してしまった、女性達の飲食店での料理撮影について語り出していた。「あれはイヤだね~」の声に私を含めた一同が頷く。「何であんな野暮が罷り通るようになったのか」云々。 「まさか、ココ(鮨屋)ではそんなことないよね?」の問いに、板場の主は微妙な表情をして、暫く無言で手を動かしていた。 以前、BARのカウンターで、バーテンダーの仕事(所作)には目もくれず、ケータイを操作し続け、注文のショート・カクテルが目の前に差し出されてもすぐに手をつけずに、それをケータイで数枚撮った後に再び掌の「分身」を操作し続け、最初の一口は3分近く経ってから、グラスの中を空にするまでに30分程時間をかけていた女のコを見た。マティーニを時間をかけて味わいたければ、オン・ザ・ロックにすれば良い。バーテンダーの仕事に敬意を抱く身には、目の前の腕の良いバーテンダー(の仕事)が不憫に思えてならなかった。 それと同様、鮨屋では、連れとまずゆっくり会話も楽しみたいなら酒のアテをカウンター上に置き、「さぁ、食べるぞ」という気になったら鮨ネタをひとつひとつ注文していき、板さんが笹の葉にのせたそれらをなるたけ(新鮮な内に)時間をかけずに口の中に入れ味わう(観賞は手や箸で口に運ぶ間で充分)。 それが、匠(プロ)の仕事に対する礼儀だと若い時分に年輩達から(実践で)教わってきた。 鮨屋の主は、手の空いたところで、口を漸く開き始めた。 仕事仲間と何度か来店していた30代前半の独身男性がある日、年下の愛らしい女性を連れて来た。その女性、注文の鮨ネタが目の前に置かれる度に、カウンター上に置き放しのケータイを手に取っては一貫一巻写していたそうな。その表情は嬉々としていた。御馳走してくれる連れの男性には「美味しい~」と笑顔を見せるが、板場の男達とは眼差しを合わせることすらなかったと言う。その並びにいた古くからの常客である老夫婦が不快感を示しているのは板場にいて察した。老夫婦は、無言のままに、いつもよりも早めに席を立った。 その女性が席を外した時に、主は、男性に言った。「申し訳ないけれども、今後はあの女性抜きで」と。 サービス業として覚悟ある発言だったが、その男性はすぐに察してくれた。「申し訳ありませんでした。気になっていながら、彼女に嫌われたくなく、言えなかった。店を出た後に私自身の言葉で心添えします」と。 二人が店を出た後、閉店時間となり、入口の暖簾を畳んで程なくに、件の女のコが現れた。 男性と店を出てから2時間以上になる。 「忘れ物ですか?」と問う間もなく、「ごめんなさい」と深く頭を垂れる女性。 漸く上げた顔は今にも泣き出しそう。閉店作業をしている板場の男達一人一人にも同じ姿を見せた。 それから、主は彼女をカウンターに座らせて、お茶をすすめながら、彼女に話し掛けた。 「お客さんの目の前で握ったものはそのお客さんの為に握ったものだから、その場で観賞してもらえれば充分。宣伝してもらわなくても店は潰れません。先程の行為が罷り通り、長年通って来られたお客さんの足が重くなる方が辛い」と。 最後に本来の笑顔を漸く確かに見せてくれた彼女。男性と駅で別れた後に、向かいのファストフードでこの店の暖簾が畳まれるのを(今度は簡便グッズの存在を全く忘れて)傷みを抱えながら待っていたという。 主は、タクシー代の他に、土産用の鮨の詰め合わせを彼女に持たせた。「写真で紹介するならコレを。握ったばかりの鮨の味得はね、写真では伝わりませんから。実際に来店していただき、口にしてもらわないことには」と。 我々カウンターの年配の客達は、まず目の前の主を称え、匠の精神を蔑ろにせずに駅までの帰途に連れにはっきりと物言いした男性を称え、そして、話の途中では評判が悪かった件の女性を讃えた。 「いつでもどこでも」の簡便グッズ使いの彼女は、本来のコミュニケーションの意味を20代半ばになって漸く、身を持って、知ったのだ。 女のコ達に限らず、この国の女性達が外食時に料理の一皿一皿を無言のままに撮り、無造作に(人様の場の)食卓上にケータイを置き放しにしている。その似つかわしくない塊から何かサイン(コール)があると、箸やフォークを置き、あるいは片手にしたまま、反応する。 それらの行為が「特異」であることを実感してはいない。 店側との人間らしいコミュニケーションは不在のままに、その「作品」をネット上に曝し、(実際の時空ではなく)後に饒舌と化す。それが、今日の「カワイイ」と「オイシイ」に満たされたいこの国の女性達のコミュニケーション法。 少し前までは日本の食育、「いただきます」や「もったいない」の精神、ヘルシー志向を称えていた欧米の女性達の日本女性に対する意識が変化しつつある。 日本女性特有の現象とも言える「外食毎の撮影」については、欧米の活字メディアでも何度か記事で目にしている。女性達の投稿も、海外移住の日本人のものも含め、時折目にする。 外食先で美味しい料理に遭遇する。店のスタッフにその感慨を伝え、「友人やネットに紹介したいので、お店のサイトのメニュー写真をお借りしても宜しいですか?」と申し出れば、「特異」を日常化するまでの不躾は回避出来る。そして、それこそがコミュニケーションの原点である。 それが出来ない日本の女性は奇妙な存在だと語る。 「日本の女性は精神的な飽食状態に陥っている」といった文章も目にした。 世界の飢餓人口は10億人を突破している。深刻だ。 欧米の先進国の女性達にはその認識がある。彼女達の母性にその現実がインプットされているから、昨今の日本女性のような「外食毎の撮影」に現を抜かすような不埒な言動は自ずと慎む(どちらが「美食人」と言えよう?)。 この精神性、かつての日本女性こそが待ち合わせていたものではなかったか。 「ウーマン・リブ」の時代から女性の社会進出の歴史を見てきた。 フェミニストの私はその流れを期していたけれども、今日の有様は私が思い描いていたものと少し異なる。 男と女、女と男、互いの良い部分、性徴を活かし認め合っての対等な関係こそが豊かだと思っていた。 今日の女性達の好き放題、蒙昧故の感性の欠落は、私の記憶にあるかつての日本女性達のたたずまいとは大きく異なる。 この国の女性達は「変容」した。社会性や国際感覚を身につけないままに、自由を得たばかりに。彼女達の視野はひたすら個人に走る。 私にとって、この国の女性達は「豊かな存在」とはさほどに思えなくなった。 コミュニケーション(社会性)不在の「外食毎の撮影」及び食卓上の無造作ケータイを違和感なく繰り返す女のコ達が何れ結婚し、家庭を持つ。女の子が生まれて、ママ友と食事。継続される外食時の不作法。その傍らの女の子。やがて、その女の子がケータイを持つ年頃になり、母親を手習いに、彼女達の日常の食卓にもケータイの持ち込みが当たり前となる。そして、外食時には母娘揃っての「撮影会」。 そんな女性だらけの店で食事する未来。それに慣らされた自分の姿と共に、想像するだけでゾッとする。 食育は女性の意識が高いことで成り立つ。 母性もまた、単に我が子だけに向けられるものであって欲しくはない。 絶滅の危機に瀕している野性動物は誰もが愛らしいと思うジャイアントパンダだけではない。 私が志ある青年時代からチェックし続けてきた「レッドデータ・ブック」の類いは(国内に限ったもので言えば)どの公立図書館でも閲覧可能だ。 「可愛い」&「美味しい」に明け暮れる「豊かさ」もあろう。 が、女性には「母性」からの視野が供わっていると信じて疑わない私は、それを育み活かす日常の在り方も見つめ直して欲しいと願う(かつてのこの国の女性達にはあったものだから尚更)。 敬愛する日本女性の一人、フォト・ジャーナリストの吉田ルイ子さんの言葉を引用したい。 「写真は被写体の協力、そして、撮る側と、撮られる側のコミュニケーション、しかもポジティブなバイブレーションとコミュニケーションが無くては撮れない、撮るべきではない。これを、私は写真の原点にしたい。被写体への思いやりとやさしさ、それは自分自身を大切にすることでもあると思う」 プロではないのだから、と尚も無断のジャーナリスト紛いを食卓に着席のままに繰り返すのは他者への思い不在の証し。「撮られる側」にとってはプロもアマも同じこと。 どうか、自分自身を大切にして欲しい。 ルイ子さんはこう続けている。 「たしかに、プロとしてのきびしさに限界があるといわれるかもしれない。私はそれでもいい。プロのフォト・ジャーナリストである前に、私はひとりのふつうの人間でありたい」 [吉田ルイ子『フォト・ジャーナリストとは? -撮れなかった1枚の写真-』(岩波ブックレットNo.100/1987年10月刊)] 1枚目の写真を見て欲しい。 トム・ウェイツのデビュー作にして名盤『CLOSING TIME』(1973)と共に映っているのは、私が他者とのコミュニケーションに用いている名刺類。 一番下のペン入りのものはオンでの名刺。 その上のカードは、住所や電話番号、各種アドレス等の欄の他、メモも書き添えられる市販のもの。 上の2枚は、「途夢待人」名義のオリジナル名刺2種(1種は洒落た透明ヴァージョン)。 このブログを始める前に拵えたもの故、各サイトのアドレスのみの記載。 私の場合はその機会は殆ど無かったが、初めての飲食店で(店側に申し出て)何らかの撮影をする場合は、仕事の時同様に、自分の所在は明確にした。悪意もないことも伝えた。 店側に記事を読んでいただき、ありがたいコメントをいただいたことも二度や三度ではない。一個人のサイト内の記事を印刷して、来店客に読ませたなんて事例も(その洋食店との交流は実に楽しかった!)。 それこそがコミュニケーションの真髄、醍醐味、原点だと思うのだが如何だろう。 ツールを起用に使い熟すこの国の現代女性よ、貴女達が本来の心優しい感性もて、このような所作(上っ面の自由の一歩先)を堂々と胸を張って熟せるようになった暁には、私は改めて貴女達の社会進出を祝し、その素晴らしさを大いに讃えよう。 是非、御熟慮を。 今というかけがえのない一時のコミュニケーションこそ、ひとつひとつ、尊重して下さい。貴女の中の瑞々しい感性こそ、今という時に刻んで下さい。 貴女達は生命の泉でもあるのですから。 この稿の結びに、「25選」からは惜しくも外れたこの記事を改めてプレイバックさせていただきたい。 ☆【番外編】ストイックなエピキュリアンとして携えるもの[2009年12月31日] http://jiyugaoka.areablog.jp/blog/1000001060/p10178979c.html 2012年の年明け、この家族から前年クリスマス・シーズンの外食の際の一枚が届けられた。 宮城県出身の夫婦が経営する、地元の生産物を使った小体のレストラン。ちょっと成長した子供達のおめかしもサマになってきた。彼等家族の食卓の後ろに写るのは同じく笑顔のこの店の主夫婦。とても素敵な、心が伝わる一枚(撮影はお店のスタッフ)。 その前後にどんなコミュニケーションが彼等の間にあったかが伝わる一枚。 夫婦はその後もこの店に通っている。 そして、子供達は東北の被災三県のアンテナ・ショップに度々足を運んでいるとのこと。 コミュニケーション及び食育の原点を見る。 この国の女性達よ。 貴女達は、我々日本の男達が胸を張って世界中に誇れる程に、まだまだまだまだ心豊かでスマートな存在になれる。 私は、それを信じています。 この国の未来、貴女に、託します。

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