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梅散りて
よはの無言(しじま)に
千(泉)の雨
彼方のちにも
いつか届かん
(自作)
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季節は確実に移り行く。
東京では桜も開花した。
気候は日増しに穏やかになっていく。
ふと目にした若い女性(都内在住)のブログには、「(気分一新も兼ねて)衣替えをした」と綴られていた。
明日から4月。そして、新年度。世の様々な事象が「気持ち新た」「リフレッシュ」に向かうことであろう。
だが、私の心はまだ春を迎える状態ではなく、クローゼットには厚手の冬物ばかりが並び、道筋の桜の花にも目を背けている。
そして、彼の地の人々もいまだ長い冬の中に在る。
岩手県沿岸の小さな町で一人暮らす母は、11日の大震災以来、安否が判らないままだ。インターネットでもTVでも、まるでその存在自体が無かったかのように、母の名前は一切現れてこない。
これといった趣味がない母の気晴らしといえば、海岸へと向かう(大きな川沿いの)スーパーへ徒歩で買い物に行くことぐらい。
小樽に住んでいた頃、高校進学前の3月に(交通事故により)精神を傷めた母は、高三の後半に我が家に漸く戻って以降、三度の食事の調理をまめにすることはなくなった。父が2005年11月末に急逝し、一緒に食事する相手がいなくなってからはいっそうその傾向が強くなり、スーパーのパック詰め惣菜ばかりを専ら御飯のおかずとしてきた(電子レンジは使わない人なので、御飯と味噌汁以外は冷えたものを当たり前のように口にしていたことだろう)。
だから、母はスーパーに頻繁に足を運ぶ。
母が一人暮らす家はいくらか高台にあるので、津波の被害は免れたようだ。周囲一帯は大きな揺れによる建物の崩壊もなかったようだ。家の中にいれば、無事だった可能性は高い。
が、母が良く利用するスーパーは、高台から下った、(海岸寄りの)低地にある。母の足だと片道20分強はかかるだろうか。
11日以降、一度だけ、そのスーパーがある隣町のTV映像を目にした。津波の被害をまともに受け、リポーターは「壊滅状態です!」と語気を強めていた。そのスーパーの状態は判らないが、いまだ営業を再開出来ないでいるようだ。
スーパーに向かう途中でも、帰りであったとしても、70代後半の母の足では、津波及び傍らに流れる見馴れた(晩年の父の日々の散歩コースでもあった)大川の氾濫から逃れることは難しかったろう。
やがて、ネット上で公表され始めた避難者名簿。
母が避難している可能性のある3ヶ所はなかなか公表されず、その内の2ヶ所は(いったんは近隣者が集ったが)被災者名が公表されないまま、避難所の役目を終え、人々は自宅に戻ったり安全な親戚の家等に移動したようだ。残る1ヶ所には母の名はなかった(端でTVの報を目にする限り、ライフラインが断たれた自宅に戻るよりも、避難所暮らしの方が実は安心していられるのだが)。
余震が続く中、母の住む辺りは、いまだ停電と断水のまま。避難所に届く物資は自宅避難者に確実に行き渡っているようには思えない。ストーブ用の灯油のストックだって、限られただけなのは、想像に難くない。
電話回線も回復せず、いつまで経っても、母の家にも各避難所にも通じなかった。
避難所格差のあるTV報道に、玉石混淆のネット情報に明け暮れる日々。
もう何日か前だったかも忘れたが、混み合っていてなかなか通じなかった岩手県警の行方不明者相談ダイヤルに漸く届け出た。
応対してくれた職員は、収容された遺体と照合したけれども、母の名前は出てこなかった。いくらか安堵したが、買い物途中で津波に遭遇したとしたら、昔ながらの買い物籠ひとつの母の身上を証明するものは何ひとつない訳だから、生きている理由にはまるでならなかった。
北海道の兄とはもう10日以上連絡し合っていなかった。とにかく、母の家の電話が通じないことにはどうにも埒があかないし、次にどちらかが電話連絡する際には母の生死にかかわる内容になるだろうと互いに解していたのだろう。電話回線が回復したら、母の元気な声が聞けるものと、我々は(望みを捨てずに)楽天的に構えていた。
そうして、徒らに日々が過ぎていった。
世の中が徐々に復興に向かい始めた中、悶々とした日々を過ごした。望みは日を追う毎に淡くなっていった。それでも、電話が通じれば、と思った。
そして、昨日30日の19時近く。
この日も何度もリダイヤルしていた母の家へそうすると、突然、電話回線は回復していた。
聞こえてくる呼び出し音に驚き、鼓動が鳴った。
受話器を両手で耳元にあて、母があのダイヤル式の電話機の受話器を手にすることをひたすら願った。
岩手で強めの地震がある度に電話すると、「うん、揺れた。怖かったよ」と母は応えたものだった。その声のトーンは、遠く離れた息子の声を聞けたという喜びの方がいつも強かった。そして、通話を終える際には「心配してくれて、ありがとう」と口にしていた母。
今回もまた、「凄かったよ」と少女のように口にしてから、「何とか暮らしています」と語る母の声を期待していた。
しかし、昨晩、何度も呼び出しても、母が受話器を取ることはなかった。
今日も朝から、数え切れないくらい、リダイヤルしたが、母の声が返ってくることはなかった。
北海道の兄へは、昨夜の、一回目の電話の後にすぐに連絡した。兄もまた、いつ、回線が復旧する判らなかったので、やはり驚いていた。「じゃあ、後は元気な声が聞ければ」と言って、電話を切った兄(彼もまた、昨夜からリダイヤルし続けたことだろう)。
だが、我々の思い描いていたイメージとは異なる現実の重さ(非情さ)がそこにあった。
何日も暗闇の中で過ごし、断続的に続く余震と、寒さと飢えと喉の渇きの中にあった母は、灯油の切れたストーブの傍らで丸まり、(あの寒さの中)眠るように息絶えていったのかもしれない(想像止まりであって欲しいが)。
近所付き合いは専ら父に任せ切りだった母。周囲(近所)に判らないまま、夫も亡くなった我が家で孤独の内に息を引き取ったのかもしれない。せめて、お隣りさんの名前と電話番号だけでも把握しておくのだったと後悔している。
まだ望みは捨てた訳ではないが、親不孝だった息子としては、行方不明のままではなく、父と同じ墓に眠らせてやりたいと望んでいる。
3月11日以来、人々やこの国の為に懸命に働いている方達の中、個人的な想いにばかり感けてきた。
この日々、様々なことを思い考えたが、キリがないので、この場で触れることはよそう。
母の安否が判らないままであっても、4月に入ったら、この国の社会人として復興の為のアクト(社会への能動的な働き掛け)をオン&オフで始めなければと思っていた。
体調は決して良好とはいえない。11日の大地震の数日前、担当医からは再入院も示唆されていた。が、命の灯が燃え尽きようとしていた長年の友(仕事仲間)の最期をしっかりと見届けることしか頭になかった(あの大地震は、火葬場からの帰途に遭遇した)。週に二度は通院し、その度に点滴を打つ日々だった。
私の携帯電話に電話することは一度もなく、拙宅の留守電にメッセージを入れたことも一度きりの母(その一度とは、「お父さんが亡くなりました」というものだった)。
可能な限り、自宅で待機し、母からの電話連絡を待つ日々でもあった。
母の声を聞くことは、もう二度と…。
まだ在学中だったかも忘れてしまったが、20代前半に、(日帰り出来る都内に住んでいながら)鎌倉へ二泊三日の一人旅をしたことがある。先立つものがないのにいきなり思い立ってのことだったから、ユースホステルと(自宅営業の)相当に怪しげな民宿に泊まった安上がりの旅だった(民宿は素泊まりだったから、カップ麺を夕食にしたと記憶している)。その際、鶴岡八幡宮の境内や七里ヶ浜で、青年の私は両親に関する物思いに更けた。そして、自分の進む道の為に、いつか迎える彼等の死を私は見届けられないのだと悟った。それを赦して欲しいと、大好きな鎌倉の地で私は遠くにいる父母に決意表明した。その時の旅日記を紐解けば、書き残しているに違いない。
そして、父の場合は現実となった。自宅留守電に入っていた母のメッセージを聞いたのは夕方。東北新幹線に飛び乗ったものの、一関で降車してみたら、連絡のJRローカル線は既に無し。地元の人に尋ね、内陸部から三陸海岸へ向かうバスに何とか乗り込んだが、歩いて行ける距離まで辿り着いたのは零時。久々に足を踏み入れる、馴染み淡い田舎町。深夜故、尚更道が判らない。滅多に通らないタクシーをやっとで拾い、微かな記憶の中にある道順を運転手に追って伝え、父の亡きがらと母の許へ辿り着いたのは、更なる深夜だった。
そして、今回の天災。
もう一人の親、母とこんな別れになろうとは(若かりし私だけでなく)思ってもみなかった。
せめて、人様の手により荼毘にふされるのではなく、また行方不明者のまま終わるのではなく、父同様、二人の念願だったマイホームで永遠の眠りにつかせてあげたい。
まずは、体調を調え、万全にしてからだ。
関東(首都圏)では、今年の夏を含め、今後、広域停電が予想される。
11日以降、自宅で一人過ごすことの多かった私は、出来る限りの節電に努めている。
夜は、基本的に、一室しか照明を使用していない。キッチンでは、『無印良品』の「持ち運びできるあかりLED」を用いている。
エアコン(暖房)は、計画停電が発表されて以降、一切使用していない(寒い夜はひたすら着込み、温かいものを飲食している)。
CD(ジャズ)は全く聴いていない。HDDの予約録画も利用していない(共にプラグを抜いている)。
PCは仕事で使う以外はプラグを抜いている。原稿書きも手書き(原稿用紙)主体にしている。
TVは、初めの数日は(情報を得る為に)つけっ放し状態に近かったが(当初は殆ど眠らなかった)、民放の報道姿勢に疑問を持ってからはNHKのみ見ることにし、ほぼ通常の番組編成に戻った今では、NHKの報道以外、オフにしている。
食生活は、情報に惑わされることなく、慎ましやかに自炊している。店に充分に置いてある食材を購入し、その中で調理している。買い占めなんて発想は全く起こらない。11日以降、カップ麺もパン類も全く口にしていない。水は、これまで通り、『無印良品』の蒸溜器によるものを飲んでいる(ここ数年同様、ペットボトルのミネラルウォーターは自宅では不要)。
この「当たり前」を今後も変わらずにずっと続けていく。
原発問題も気になるが、その利用下にあり、節電を求められている各家庭にとって、ひとつの部屋(リヴィング)に集って色々と語り合う良い機会でもあると思う。それが出来ない身にとっては、正直、羨ましくもある。
長らく更新していないにもかかわらず、毎日のようにこのブログをチェックしてくれた皆さん(の心の持ち様)に感謝し、敬意を抱いている。
どうもありがとう。
今回添えた写真は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』仕様のポストカード。
何年か前のHP時代、映画サイトを通して知り合った方3名(何れも初対面)と南口緑道で屋外ワインを楽しんだ際、その中の紅一点(既婚者)からいただいた(郵便局発行の)『星の王子さま』ポストカード・セットの中の一枚(サン=テグジュペリのことは日記スペースに頻繁に綴っていたからであろう)。
未使用だったが、震災から2週間後の25日、母宛てに選んだ。
『星の王子さま』は、サン=テグジュペリが遠くにいる大切な存在に想い馳せて綴った作品でもある。
最後になるかもしれない母への一枚に相応しいと思った。
綴るスペースが僅かなのでたいしたことは書けなかったが、一番最後に「また、再会出来ることを信じています」とした。
被災地への郵便事情は判らないが、困難を極める孤独な闘いの中で読んでくれたことを願っている。
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