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Channel: 途夢風情感
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FAREWELL[2]~『1951年のロバート・キャパ』…『2011年のX』~

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([1]より) 16年前の大震災がきっかけとも言える「途夢○待人」でのネット上執筆の始まり。 そして、この度のあまりにも辛い大震災。 「途夢○待人」の名を捨てる潮時と感じた。 今を逃せば、限りある生の時間をこのままズルズルと浪費(誤用)し、知らず知らずの内に生命力を摩耗していくことになろう(あくまでも、私に限っての話だ)。 現実の世界で、オン&オフに渡って、アクトすべきことがある。戦後日本のこの最大のピンチにおいて、それを強く感じている。3月11日以降、机上の傍観者に留まらざるを得なかっただけに尚更。 「対人間」生活にどっぷりと戻りたくなったのだ。 私にとっては、それが当たり前の暮らしぶりなのだ。 「(笑)」ではなく、「微笑を浮かべる」も「顔を見合わせ大笑いした」も「何となく照れ笑いした」も「思わず苦笑した」「いつの間にか泣き笑いしていた」も「失笑」も「朗笑」も「嬌笑」も「談笑」もしっかりと存在している豊かな世界に、(徒らに自己主張することなく)慎ましやかに社会生活を黙々と営む人々と共に、在り続けていたい。(数多の見知らぬ存在を含めた)相手の表情や笑い方や体温や息遣いを感じられる世界をこそ、(かつてのように)かけがえのないものと実感しつつ生を歩んでいたい。それらの人々の為のアクトを厭わない人間に戻りたい。社会への能動的な働き掛けに人生の手応えを得ていたい。 人様に書き著すことは、仕事で為している。それで充分。 ネット上で若い世代に何か伝えようと試みたところで、限界がある。ネットの「流儀」に私の方法論は何の意味も為さない。 これからは、私の人間性もて、向き合い、笑顔や握手を交わしつつ、(ネットではなかなか現せない)温もりや湿度(湿潤)も交え、一人一人と向き合い、語らって生きていたい。それは、社会人、大人の男の務めでもあるように思う。 「待つ」日々の中でも、仕事を熟さなければならなかった。 憔悴し切った出で立ちで迎えた久々の外の仕事(インタビュー取材)は、哲学科在籍の女子学生がお相手だった。 正月明け、「二十歳同士の恋人達の話を都内各所で聞き、彼等の価値観や社会に対する想いを浮き彫りにする」という仕事(原稿執筆)を担ったのだが、その中の一人だった。 別の内容の話を伺うはずだったのだが、やはり、この大震災の影響が我々の対話の節々に現れた。 震災前、彼女は他の同年代の女のコ同様、携帯電話をのべつ幕無く手にせずにはいられない学生だったという。哲学書を読んでいる最中でも、傍らでケータイが反応すれば、電話に出たり、メールをチェックしたりの日常が「当たり前」と思い込んでいた。 そんな中でのこの大震災。 本当に必要な人同士の電話が繋がらない悲しい現実を引き起こしているのは、被災地に肉親や友人がいる訳でもなかった自分達ケータイ依存症の身の在り方ではなかったか。 TV画面で今も繰り返し流される「無駄な通話やメールは控えよう」の文字が心に深く突き刺さったという。 そして、こうも思った。 この「痛み」も喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのではないか、と。 私の青年時代とも重なって見えた、(チャーミングな)哲学青年はこの震災以降、ケータイ画面から目を離し、世の事象や(見知らぬ)他者にしっかり眼差しを向けるように努めているという。つまり、ケータイが誰にとっても簡便なればこそ、その使い方を弁え、程良い距離を保とうとしているのだ。 そんな健気な彼女に、私は、「これからの時代は、ケータイを絶えず手にしている片手よりも、人の為に空けておく(力になれる)片手が求められるようになる。私はそう信じている」と語り、私もまた哲学科出身であることを伝えると、(取材対象に滅多にしないことだが)このブログの存在を教えた。 数日分の記事を読んでくれた彼女から「貴方のような大人に出逢ったのは初めてです!」と興奮気味の便りが先日届いたのだが、それはアドレスを教え合ったメールではなく、封書に入った実際の手紙だった。 筆圧も筆跡も温もりも伝わる存在の美しい文面だった。「最初から読んでみます」とのこと。 私にとっても、ひとつの転機となる出逢い(反応)だった。 私はそんな付き合い方(出逢い)を限りある命の中で再び味わってみたくなった。確実にひとつひとつ。 それは、私という人間の存在証明でもあるまいか。 私の中の眠っていたものが、今、揺り動かされている。 ブログを終わらせたいと思った理由のひとつに、手書きの日記を再び綴りたくなったこともある。昔ながらの、誰の目に触れることもない日記を若い頃のように始めたい。 日々葛藤し、反芻しながら、精神修養を積み、私自身の(成熟の)為に認めていく。人間として、より深みが具わるように。 若い頃に綴った日記に後々感じ入ってきたように、老人になった時、「あの大震災」の後に私がどのように人生の歩みを進めたのか、顧みてみたい。 震災2週間後の3月25日に、安否の判らぬ母に『星の王子さま』のポストカードを綴ったのだが、その際、未使用のポストカードや便箋&封筒が大量に出てきた。 思えば、この20年程の手紙といえば、シンプル(真っ白)な縦書き便箋&封筒を用いた、形式上のものが主だった。小学生の頃からの文通愛好家だった故、使い切っていない(今使うには些か恥ずかしいデザインの)便箋&封筒は数多。このまま使わないのは勿体ない。 昔人のように、硯で墨を摺ってという訳にはいかないが、肉筆の手紙を(背筋を伸ばして)縁ある人々に綴る習慣に方向修正したくなった。 「ネットの住人」から退こうと思った大きな理由がもうひとつある。 20代半ば過ぎ、25歳の時に初めて購入したワープロで長編小説を書いた。 『1951年のロバート・キャパ』というタイトルをつけた作品(今思えばこの時が「途夢待人」を名乗った最初だった)。 1枚が(40字×40行だから)400字詰原稿用紙4枚分。それを130枚(単純計算で400字詰原稿用紙520枚分)まで書きながら、最後まで書き終えることなく、未完状態で、20年余の間放置したままにしてしまっていた(自分でも驚いてしまうが、20代半ば過ぎからの数年は舞台役者として最も忙しくしていたから、良くこれだけの量の原稿を書いていたなぁと思う)。 実は、この『1951年のロバート・キャパ』を書いていた時に既に『2001年のトム・ウェイツ』なる続編のプランを練っていて、その構想のメモ書きも数多残している。 更に、今、(果たして可能か判らないが)この国の未来に寄せた完結編『2011年の…』も書く必要性を感じている。 2005年の10月末に父が急逝した後、2005年~2006年の年越しを岩手の母の許で10日余り過ごしたのだが、HPの日記スペースで、「『初めて』の実家での正月;2006年、年頭の想い」と題して、正月明けにこんな文章を残している。 ☆ 父が(1986年秋に)建てたマイ・ホームでの初めての年末年始。(父が用意してくれていた)2階の子供部屋ではなく、1階に在る父の書斎で過ごしている。この部屋の卓(机)に向かい、床を敷いて寝ている。父の遺物(愛用品)が満ち、父の香を感じるこの部屋で年頭所感(一年の計)をと思ったものの、これといった具体的な抱負は特にない(人間、中年にもなると、新年の大願大志は限りなく無用の長物化していくものだ)。 だが、これまで何度かここで書いてきたのだが、長きに渡り放置状態にある未完自作小説『1951年のロバート・キャパ』、若しくは全くの新作に着手出来る精神環境に身を置きたいという気持ちはある。というのも、年末、中一の時分に書いた処女中編(400字詰原稿用紙150枚程)が押し入れの奥からひょっこりと発掘されたのだ。 (中略) そうだった。あの頃(少年)の僕はまるで原稿用紙が無二の親友かサイドキックであるかのように、無我夢中で原稿用紙に向かっていた。その後には詩も随分と書いた(今日の少女達のように人前に曝すことは殆どなかったが)。僕は、書くことが、言葉を紡ぐことが本当に好きだったのだ。 元日の午後、父の書斎の押し入れを漁っていたら、15年以上前に兄が父にプレゼントしたワープロが購入時の箱に梱包されて出てきた。父は人から贈られたものを大切に使う人だったから、馴れない手つきで、この「新しい知的生産の技術」にいつも向かい合っていたようだ。いかんせん、ディスプレイの小ささが還暦を超えた目には些か辛かったのだろう。(兄に申し訳ないと思いつつ)御蔵入りした訳である。20年余前、僕が初めて購入し、愛用していたワープロと同社製。試しに打ってみた。今ではすっかり古めかしい型だが、充分使える。インクリボンもまだ入手可能。母の許しを得て、僕が譲り受けることにした。時代遅れのワープロで古めかしい物語を紡ぐのも悪くはない。言葉少なな父なりの僕へのメッセージにも思えた。東京への土産を幾つか減らし、持参して帰ろうと思う。 ☆ 5年前のお正月にそう(密かに)決意しておきながら、帰京してからの私は、父のワープロを触ることも、未完のままの『1951年のロバート・キャパ』の続きを書き始めることもしなかった。 PCや直筆で仕事の原稿を書き、携帯電話でHPやこのブログの文章を綴る日々には、父のワープロで(出版する訳ではない)自作の原稿書きをする時間的余裕も余力もなかったのである。 今回の大震災を経験して、日々のブログを書いて消化した気になったり満たされたような気になったりの時間の過ごし方では駄目だと改めて思うようになった。 人生の時間は限られているのだ。 自分自身の信念と父母の為にも、20代半ばの私が思い描いた壮大なロマンを(元気な内に)書き著さなくてはという想いが強くなった。 ブログ更新を止めることによって出来る自分の時間を、父のワープロを用い、改めて初めから書き直す『1951年のロバート・キャパ』の為に充てていきたい。 ([3」へ続く) ○写真 1.四半世紀前に書いた『1951年のロバート・キャパ』のワープロ原稿と、作品の中に登場するキャパのポートレイト。 冒頭部分の一部を引用したい。 ☆ 僕の部屋のベージュ色した壁には、戦場カメラマンのロバート・キャパのポスターが貼付けてある。1951年にパリのBARでルス・オーキンスが撮ったものだ。30代後半のキャパはBARのカウンターに頬杖をついて、ユダヤ系特有ともいえる実に親しみ易い笑顔でこちらを見ている。僕は、ベッドの上でグラス片手にそれを眺めるのが好きだ。グラスの中身は、ワン・ジガーのスコッチ・ウイスキーにハーフ・オンスのドランブイ、それに大きく不格好な氷をひとつ。ラスティ・ネイル。BGMは、ビリー・ホリデイが歌う『エイプリル・イン・パリ』(この写真が4月に撮られたかどうかは知らないけれども…)。その静かな静かな時の流れの中で僕はいつの間にか眼を閉じ、これまでの26年を断片的に顧みてみる。 (略) ある時、キャパのポスターを眺めていた時、僕は決意した。 失わなくても良いものは失う必要はない。むしろ、守り通さなくては。その為になら僕は徹底的に抵抗を試みてやろう、と。 これは、僕のささやかな闘いの物語であり、笑顔が魅力的なこの世の数多のキャパの隣人に捧げる、僕の心からの贈り物でもある。 ☆ 2.『無印良品』の再生紙メモパッド(80円)は、私のHP&ブログ・ライフに欠かせないものであった。 HP時代の日記スペース更新には、メモパッド一面にびっしりと下書きした(片面約五百字、裏面も使って千字)。このブログになっても、書く内容のメモ書きに欠かせなかった。 脇にあるのは、『ルピシア』のお茶。 前日、(震災の影響で)通常よりも一週間程遅れて届けられたサンプル・ティーの緑茶「土佐 仁淀川」も美味しくいただいた。

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