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Channel: 途夢風情感
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FAREWELL[3]~THERE IS A TIME FOR EVERYTHING~

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([2]より) 2005年の暮れから2006年の新年にかけて、亡父の書斎でHPの日記スペースに綴った(この今と共通する)想いがあるので、少し長くなるが、「途夢○待人」のHP&ブログ文章の総括として再録させていただきたい。 ☆ 「MY BOAT FOR YOU:何を見、誰の為に泣くのか2005~06」(タイトル) シモーヌ・ヴェイユ(1909~43)というフランスの女性思想家がかつてこの世に在った。約四半世紀前の学生時代、哲学科に在籍していた僕はヴェイユ(及びその思想)を卒論のテーマとした。教授達の顔ぶれ(専門分野)からして、ドイツ哲学(者)をテーマとするのが「自然」であった中、また、第二外国語を独語としていた身には、かなり無謀なことで、他の学生達を含めた関係者諸氏には相当いかがわしく思われていたようだ。それでも、僕が己れの意志を貫いたのは、ヴェイユが(他の多くの哲学者達と違い)実践する哲学者だったからだ。その言動全てに賛同共鳴出来た訳ではなかったが、ソマリアをはじめとする貧困国における実際の飢餓と、日本に芽生え始めた内在(精神)的飢餓が並行存在する80年代初頭において、(常に社会的弱者の立場に在った)ヴェイユを語ることは、現代的意義があると信じた(僕の執筆目的は教授達に型通りに気に入られることではなく、日常を生きる人々に読んでもらうことにあった)。副題は『人間の尊厳の為の反集団的思考宣言』とし、「集団」と「個人」の在り方も言及していった。 高校時代、3年間で優に百名を超える仲間(先輩・後輩)と共に合唱という芸術の創造にのめり込んだ身にとって、「集団」が内在している力(“SOMETHING WONDERFUL”)に対しては格別の思い入れがある。「1+1+1=3」でしかない集団には惹かれないし、マイナス(負)のベクトルでしか表出出来ない集団には幻滅する。不断の修練を重ねた個人が各々の特性を結集させて生まれた集団、その力(創造表現)と出逢い続ける人生を生涯送れたらと夢想する。 「『愛する』とは互いを見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見ることである」。上京1年目の秋、後輩達の定期演奏会の祝電に、サン=テグジュペリのこの祈りにも似た想いを引用した。徒らで稚拙な「個性」尊重を唱える新世紀のこの国の「愛」は、残念ながら、哀しいかな、『星の王子さま』の作者の想いとは異なるベクトルを向いている。肥大の一途を辿るモノへの消費、不満の消費が進むに及び、民主主義の社会(生活)における個性表出が、不断の修練とは程遠い、(無自覚の)エゴイズムや自惚れ鏡に成り下がっているのだ。 外(社会)に出ても他者の表情を見る(読み取る)こと抜きに一日を難無く過ごすことが出来る時代。その象徴がこのインターネット世界だろう。若い世代が立ち上げるHPの多くは、「自己満足」を常套句とした、「個」的な場。一方的にしか自らを表せ(著せ)ない。他者との双方性の欠如。他者が意識されない無関心さと無自覚さ。同じような立ち位置にいる(共通する理念や感情を持つ)者だけと語り合い、情報交換する。己れ可愛さを起点とした(計算の働いた)他者との関係性。(異質なものと)コミュニケーション出来ない(交われない)次世代の姿は、旧人類の身には何とも無味乾燥、異様な光景だ。 スポーツ中継、観客参加型映画CM、毎夏恒例の某長時間チャリティ番組等でリフレインされる、「感動をありがとう」や「勇気を貰った」等の常套句も、今の日本人のエゴイズム(自惚れ鏡)を象徴している。本来、「感動」とはもっともっと主体的で能動的な感情、内面ではなかったのか。自分が気持ち良くなりたいが為の上っ面の言い回し(口上)に成り下がってはいまいか。 (中略) 「不安」に怯え、「不満」を消費する人々の魔女狩り傾向も気になる。誰かを悪者にしなければ心が落ち着かない、というような…。 「読書離れ」と形容されて久しい若者達が辛うじて飛び付くのは、身近な言い回し(感覚)で綴られるベストセラー。(かつての日本人が日々の糧としていた)古典の精神性に何かを希求し、思惟する気は更々無い。誰もが自らの表現の場(HP)を持つことが可能になり、街頭インタビューのマイクを向けられる時代において、先人の詩を共に愛でることは既になく、社会(向こう側)を意識した成熟の言葉を発することは軽んじられ、醜い日本語が大道を闊歩する。 僕は、21世紀を迎えて、この国の社会集団の在り様(形態)は、「mob(モブ、モッブ)」の傾向になりつつあると見ている。「mobile(動き易い)」を原義とするこの英単語は、英語や映画と少なからず接点がある向きには度々目にするものだ(「mob scene」、「mob psychology」、「mob law」、「mobster」、…)。字引きでは「大衆」や「民衆」と日本語表記されてはいるが、同じく匿名性の多数者から成る未組織の集合体である「mass」よりは、(心理的に)無名性や軽信性や衝動性や知性低下傾向が著しい(破壊的行動をしかねない)「群集」。社会学的には、「公衆(public)」と対峙して、「群衆」と訳されている。(マラソン等の)スポーツ中継や事件現場に携帯電話片手に現れてTVカメラに顔を出す輩、ワイドショー化した民放の報道番組のインタビュー(証言)に思慮判断なく応じる向き、件の魔女狩り傾向のみならず、日本人の日々の生活に浸透してしまった「集団形態」ではないだろうか。何故、こんな現象が日常化してしまったのだろう。 そこには、「public」な場に「private」なモノを「public morals(公衆道徳)」抜きに、先人の教え(知恵)抜きに、(例え思慮が足らなくても)誰もが容易に持ち込めるようになってしまった、この国の何とも貧弱で稚拙な個人主義・自由主義が見てとれる。「private goods」は私(個人)的には「便利グッズ」そのものではあるが、一方で、他(者)から隔絶し、人と交わらない新種の社会人を量産させ、それを「当然」と化してしまった。使う人を選ばない便利グッズの(不粋無遠慮な)使い勝手は、「the thinking public(良識ある民衆)」の姿も、「for the public good(公衆の為に)」という理念も、街から、日本人の意識からも、た易く消し去ってしまったのだ。 「感動」や「涙」が大量生産され、均一的且つ受動的にそれに飛び付く日本人。それに伴い、肥大化する「モノへの消費」と「不満の消費」。それらに被い尽くされたこの国の次世代諸君が織り成すネット上の「個」的なサイト(場)に、僕はひどく息苦しさを覚える。 与えられた情報に流され、安易に享受しては、それを「理解」と錯覚し、自らの力で深くは考えない。他者(異世代)との共通する理念や感情や関係性は益々希薄化していき、社会(集団)は「public」としての意味を為さなくなり、「mob」としてのベクトルをより強めていくのではないか(「実体」が伴わないだけに実に厄介だ)。 この時代、モバイル・サイトを続けることに意味を見出だせないでいる。ネット社会の成熟をひたすら辛抱強く待ってみるか…。いや、その日は、哀しいかな、やってきはしまい。 次世代諸君に是非とも伝えておきたい。 新しい船を動かせるのは、古い水夫ではなく、紛れも無くキミ達新しい水夫に外ならない。だが、キミ達新しい水夫には古い水夫の手助けが必要だ。何故なら、古い水夫は海の実体を識っているから。キミ達新しい水夫はまた次の新しい水夫にそのことを伝え教え、彼等を導いていかねばならない。キミ達新しい水夫がその受け皿を得る為には日常の不断の修練(荒波での航海)が必要不可欠だ。なのに、何故、キミ達新しい水夫は目の前に広がる大海の航海に予め背を向けるのか。この国を貴兄に委ねて、本当に本当に、良いのですか? ☆ 長い引用(再録)の冒頭に出てきた卒業論文のまとめ部分で、「哲学を実践していける生き方を貫いていきたい」といったような物言いをした。 大学4年生が専門分野の学びの閉めに書くには何とも青臭い言い回しで、頭のカタい教授連中にも良い顔をされなかったのを覚えている。 でも、その文章を削除しなくて良かったとも思っている。 そう宣言してみたことは、その後の私の言動(表現)指針ともなっているだろうから。 そして、長く「ネットの住人」に安住していた身が再びそう在るように努めるのがこの今であり、今後なのだと思う。 小樽の高校時代、東京国立の国立音大4年生だったOBが(ドイツ語の原文と共に)手紙に認めてくれた、いまだに人生の糧としている教えを、この今、改めてこの場に書き留めておきたい(記事内容検索で「ハルモニー」を引いてみたら、計6回も紹介している)。 ☆ 楽しみにはアンダンテであれ 決心にはアレグロであれ! 娯楽をピアノに愛し 義務をフォルテに行う人こそ 人の世のこよなく美しいシンフォニーを 最も清らなるハルモニーの中に演奏する人である! ☆ 「娯楽をピアノに愛し」の「ピアノ」は単に「弱く」という意味ではない。クラシック音楽を学ぶ方、好む方には理解してもらえるかと思うが、音楽の強弱標語「ピアノ(p)」や「ピアニッシモ(pp)」が求められる箇所には凝縮された創作者の想いがこめられていたりする。「フォルテッシモ(ff)」以上の響きが求められるのだ。 逆に、「義務をフォルテに行う」の「フォルテ」は「高らかに」と解していただけると、このメタファー全体が見えてくると思う。 時々は思い返してみて欲しい。 東日本大震災の復興支援については、既に幾つか考えている。 石川遼選手とは比べ物にならないが、私の場合は印税を長いスパンで義援金に充てるところからスタートしてみる(そういえば、件の物語の完結編のタイトルは、この国の次代と未来への期待を込めて『2011年のイシカワ・リョウ』ってのもアリだなぁ…)。 今、「HUMAN RENAISSANCE」の時。人間復興。人間性・人間力再生の時。 人間は道具を用いる者であるが、決して「持つ者」ではない。 「生かされている」のだ。 ここに留まる必要はもはやない。 HP時代からの読者を含め、知り合い、親しくさせていただいた方にはとても感謝しています。 個別の挨拶を省略させていただく不躾を許して下さい。 本当に色々と有り難う。 「地域(エリア)ブログ」という場を与えられたことにも感謝している。 この最後の更新の後、携帯電話のブックマークも外すので、「地域ブログ」を見ることももう無くなると思うが、コメントを寄せてくれたり、「お気に入り」に入れてくれた方の息遣いはこれからも意識して、同じ時間を生きていく。 メールのやりとりをしている方には、今後も変わらずにお付き合いお願い致します(大人のペースで)。 ジャズも聴きに行くし、ワインも楽しむ。 そして、こよなく愛する自由が丘の街にも、これまで同様、出没する。 もう少しで再生する女神像広場や大好きな南口緑道のベンチ、神聖なBARのカウンターでお近づきになることもあろう。 その時にはもう「途夢待人」の名はなく、本名の私でいる。 その時の潤いを心待ちにしていようではないか。 お別れの時だ。 ごきげんよう。 We'll always have WJJ. I think this is the beginning of a beautiful friendship. THE END by 途夢♪待人 http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=wjj 途夢☆待人 http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=ofth 途夢★待人 http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=yumex & 途夢待人

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