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Channel: 途夢風情感
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「あとがき」に代えて[2]~時代を見つつ、時代に流されず~

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([1]より) このブログでもその著書(文章)を何度か話題にしてきた阿久悠さん(作詞家・作家/1937~2007)に、日本人への真摯な遺言ともとれる、『清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ』(新潮社/2007年)という名著がある。 「今、言葉がない。誰も言葉を使わない。どのように饒舌に語彙数を積み重ねても、心を通過しないものは言葉とは呼ばない。(略) 警句にならない言葉は、美意識とも神との契約とも全く無縁の伝達記号である。 (略) 大抵のものは代役がきく。 ただし、僕ら民族の子どもたちは替えられない。とすると虚無の心に警句を吹き込むぐらいの努力は全大人がすべきである」 「文化は大人のものであったということである。大人の所有物という意味ではなく、大人を唸らせ、黙らせてこそ初めて合格、作品にも商品にもなるというハードルが社会にあったのである。 それはどこか理不尽であったが、理不尽の壁があってこそ新しい文化もエネルギーを持って誕生したのだと思う。 とにかく、何をするにも大人になる必要があった。(略) それが逆転した。大人の世界に価値観もマーケットもないのである。今、文化に関わろうとする人は誰も、幼稚を競い合う。妙な話だ。 年齢も若く見せようとするし、作品や商品も若者以下をターゲットに考えて作っている。壁もないし、ハードルもなく、若者文化が蛙のタマゴのように孵化している。 かくして、日本は、若者のための若者による若者文化の社会になり、誰も大人になろうとしない奇っ怪な価値観の国になっている。大人よ!」 「その国にはその国の、その民族にはその民族の、それぞれが美しいと思えたり、心地いいと感じられる生き方の規範 - たぶん、文化というものがそれであろう - のようなものがあるのだが、ある時ぼくらは、それを曖昧にしてしまった。 身の丈を心得て常識化させた生きる哲学を、時代遅れの拘束として捨ててから、国の背景がなくなった。 (略) 何とかしなきゃと誰もが思う。だが結局は、何とかしてくれと誰かに渡す。背景を真っ直ぐに立てることも重要だが、一人一人が傾きを自覚することはもっと大切である。 ぼくたちはいつの頃か、何かを得るために、トランプのババのような『無』を掴まされたのだ。手に入れたのは、自由か、金か、勝手か何か知らないが、掴まされ、背負わされたのは、『無』である」 「かつての親たちは子どもに何を教えたか。感の字である。どんな横着な親もこれだけは責任を持とうとした筈である。 あれこれ生きる技術や方策を知恵として授ける前に、子どもたちに感をいっぱい与えて、活力ある情を育てるために一身を注いだ。教育という立場ではなく、日常的に自然に、自らも感を大切に思って生きながらである。 感謝することを口酸っぱく言われた。感激することの心地よさを覚えさせられた。感動が自分のエネルギーを増幅させることを実感させてくれた。感喜と感心も人と人の間に通じさせると幸福に思えるというのが、幼い間に常識になった。 (略) 要するに感の字のつく言葉は、細胞化してぼくらを大人にしたのである。だが、その後時代は移り、大きく人間社会が変化し、感の字を細胞にして生きている人たちを見なくなった。 (略) 為すべきは、感の字を消滅させない個々の努力ではなかったかと思う」 「ぼくたちは、それぞれに原風景を持っていた。原風景とは与えられたものでもなく、強制されたものでもなく、自然に心の銀板に感光させた写真のようなものである。 風景というが、必ずしも景色の印象ではなく、たとえば父の姿、母のしぐさ、先生のことば、または、安らぐ空間としての部屋の一角、人の往き交う町の通り、子どもで満ちた校庭のにぎわい、といったものがしっかりと焼き付いている。つまり、かたちだ。そのかたちがあるからこそ、仮に問題があっても、血の通った言語で語り合うことが出来たのだ。 ところが今、論ずれば遠くなると感じるのは、原風景を持たない人間同士が、条項優先で語るからではあるまいか。答に幸福感がないのも当然のことである。 さて、原風景はデジカメでは写らない。銀板写真か針穴写真のように、何時間もかけて一景写す。子どもをそんな原風景持ちにしよう」 「ぼくらが知識だと思っていることの大部分は、思い込みであって、真の知識でないことが多い。 (略) 一日一回世界地図を眺めよう。じっと見つめよう。そして、考えよう。 すると、瞬時に繋がるITに於ける世界が、省略してしまったものが見えてくる。 地球上の国と国の距離や、国と国の隣接には、距離と隣接の文化的意味や、歴史的必然があって、必ずしも、便利さだけで越えてはいけないものであることがわかる。 ましてや、世界を狭くすることは『正義』ではない。単なる方便だと地図で知ろう」 「美しい人を見なくなった。正しい人も、潔い人も、清廉な人も、やさしく、にこやかな、勤勉な人さえいなくなった。一斉に姿を消したものだから、妙な安心感が生まれて、さあ大変だも、これでいいのかも考えなくなった。むしろ、それがトレンドだとか、国際水準だと思っているところさえある。 (略) ぼくらは、いや日本人は、一体何と引き換えにして、現在の卑しさと無作法さを手に入れたのだろうか。本来あるべき姿、受け継いだ血を変えることに、かくも懸命になったのは誰の指示によるものだろうか。魔法使いはいたか」 「政治家に『美しい』を持ち出されたのは、ぼくら庶民のハジである。しかし、そのハジを忍ばなければならないほど、『迷惑』が闊歩している。現代の迷惑は恐縮しない。それどころか居直る。 迷惑がハジでない社会は美しくない。迷惑を制するのは法ではなく、実は節度なのだが、これに力がなくなった。 節度とは消極的品性ではなく、積極的品性のことで、これが美しさを支えるのだ」 等々。 阿久悠さんによる簡潔なアフォリズム達とこれらその解説(フォロー)の文章は、全て心に響いた。 私がHPやブログで事あるごとに認めてきたことと近しく、全て読み終えた後にとても心強く思えた(残念ながら、御本人は不在となってしまったが)。 昭和の香り漂う文人の手による一冊が現世に確かに著されているなら、私が改めてネット上で口喧しく語る必要は無いとも思えた。 「若者たちを思想なきデラシネにしている因は何か、価値なき魂の漂流をさせているのは何によるか」、「かつてあって今なくなってしまっているもの、そして、なくなっていることに不便を感じないような、ごくごく精神に関わるものは何か」と考え憂いていた阿久悠さんが紡いだ「日常にそった粋な教訓」の数々。 昭和(アナログ)が既に遠い過去でしかない若い世代だけでなく、(本来は彼等の導き手であったはずの)この時代の大人一人一人に読んでいただきたい一冊。 そして、日本という国の大きな転機ともいう(一人一人が「質量」を持つべき)この大切な日々に、我々の国と我々の言葉と我々日本人とを改めて問い、見つめ直していただけたらと願う。 もう一冊、GW明けに手にした優れ本を是非とも紹介したい。 『名所旧跡・街頭風景の今昔 ニッポン時空写真館 1930-2010』(誠文堂新光社/2011年3月15日発行)という写真集。 著者(撮影)の二村正之氏(1958~/宮城県出身)のことは存じ上げていなかったのだが、撮られている数多の写真が相当な労力(手間隙)をかけている上に、一枚一枚があまりにも素晴らしいので、てっきりプロの写真家と思いきや、写真はあくまでも「趣味」、本職は発生生物学と解剖学を専門とする医学博士という人才。 どういった写真集かというと、北は北海道の旭川や釧路から南は沖縄県の那覇まで、全国約190ヶ所の景観(街並み)が1頁毎あるいは見開き頁毎に新旧で並んでいるのである(人気ドラマ『JIN-仁-』の毎回のオープニングのタイトルバックに登場する同所の新旧見比べの如く)。上に、大正末期から昭和初期に撮られたモノクロ写真。下に、現在(2003年~2010年)に著者が(約80年前とほぼ同じアングルから)撮影したカラー写真。 (著者二村氏が生まれる以前の)旧写真は、同出版社(旧名「新光社」)が昭和4年から昭和7年にかけて刊行した『日本地理ふうぞく大系』(全18巻)という大変貴重な大作資料に残る価値ある写真を用いている。つまり、その貴重資料の(一部の)復刻という意味合いともなる訳である。旧写真のキャプション(解説)は当時のものを元に二村氏が執筆しており、現在の写真のそれとの比較も読んでいて興味深い。 一枚(対)の写真から読み取れる情報は計り知れず、次の頁へはなかなか進めない程。 そして、写真達が単なる情報を軽く凌駕し、確かな温度と豊かさを伴って、心に響いてくるのだ(私の場合、高校卒業まで過ごした北海道各地の写真をまずチェックし、次に長年暮らしている東京、それから東北の被災地の頁を繰り、そして全国を見ていった)。 発行日は「2011年3月15日」と後付に記されているが、出版業界の慣例に倣えば、3月上旬、つまりあの未曾有の震災前に書店に列んでいたことになる。 私が今年出遭った中で文句無しにベストのこの一冊が2011年3月に刊行されていたのは言葉に言い表し難い巡り合わせを感じる。 この充実の内容のヴィジュアル本で税込み三千円弱の定価(本体\2,800)は購入価値が大いにあるかと思うが、お近くの公共図書館にリクエストするだけの社会的意味合いも間違いなくあるかと思う。 老若問わず、全ての日本人に手にしていただき、戦後最大の国難に直面している我が国とその現在・過去・未来に一人一人が真摯に向き合っていただけたらと思う。 本編自体素晴らしいのだが、渡辺一雄広島大学名誉教授(著者の恩師)が前書き部分に心に響く推薦文を認めている。 是非、抜粋させていただきたい。 ☆ この写真集は浅薄な市場価値に振り回されることなく、決して押しつけでなく、静かに人の心に語りかける。この時空の情景はあらゆる世代の人々に、それぞれの人生経験に応じた感動を残してくれるに違いない。 旅をすると多くの目新しい景観に出会い、いろいろな残像がそれぞれの人の心に刻まれる。一体、景観が心に刻印されるとはどういうことだろう。どんな「残像」なのだろう。それは、<見ている個人>と、<共にある時間>と、<そこで営まれるヒトの営み(文化)>という三者に対するこよない共感ではないか。これこそヒトという生物の優れて原初的な感動ではないか。 写真も確かに情報である。しかし、これがなぜかくも豊饒なのか。実を言うと、私は情報化によって現代人の心から本当の文化を受け止める感性がどんどん奪われていくのではないかという恐れを抱いている。いま世の中は「情報」という名目のもと、動画や画像があふれている。アマゾンの秘境の珍奇な生物から世紀の芸術に至るまで、これほど手近に画像が満ちあふれていてよいものだろうか。これを暇つぶしに選別、観覧することはそれほど豊かなことだろうか。これまで人類が経験してきた我慢とは克服すべき貧しいことだろうか。我慢こそは文化を生み出す強靭な憧れと執着の原動力ではないかと私は考え始めている。その憧れと執着こそが、努力という人間の美徳の出発点ではないか。努力なしに文化は生まれないのだから。 文明の進歩に伴う社会の激変に対して、そのクッションとなり、なんとかそれを受けとめてきたのは、人々の「人間らしさ」であった。われわれはこれを信頼して物質文明を享受している。これを失って、どうやって未来に希望を持てばいいのだろう。 この本は、その「人間の営みへの思いやり」をそこはかとなく感じさせる。子供や若者たちも、一瞥すれば、この豊饒さを感じ取るのではないだろうか。 ☆ ([3]へ続く)

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